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3.11の時、私は

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こんにちは!

ママ社労士のままてぃーです。

2021年3月11日で東日本大震災から10年が経ちました。

え?もうそんなに経ったの?という思い、まだ10年かという思いどちらもあります。

この10年で私を取り巻く環境は大きく変わりました。

美容師を辞め、社労士を目指し転職と勉強を続けました。

同郷の夫と出会い結婚しました。

そして息子がうまれ、家族が増えました。

こうして振り返ると10年という時間は人生が大きく変化しうる長い長い時間です。一方で10年前の今日のことは詳細に当時の気持ちまで思い出せるほど身近にも感じます。

当時のことを今一度振り返ろうと思います。

3.11私がいた場所

2011年3月11日、その日は私が当時働いていた美容室のランクアップのための実技試験の日でした。

無事試験が終わり、後輩、モデルさんや審査官らとランチの後、ラフォーレ原宿あたりでみんなと別れました。

その後私は表参道の商業施設の地下でパンを買おうと思いエスカレーターで地下に向かっていたところ、2:46大きな揺れに見舞われました。

直感でこれはデカい!と思い手すりをぎゅっと握り、それでも止まらず下るエスカレーターから、地下の様子を見ると紅茶屋さんのディスプレイが音を立てて崩れていく様を目の当たりにし、外に出れば広場があると考え、地下についてすぐに階段に向かい外に出ました。

たまたまよく行く施設だったので、階段の場所を把握していたためすぐに動くことができました。

エスカレーターで下っているときから階段で外に出るまでの時間は1分もかかっていないと思いますが、無我夢中ですべてスローモーションで動いてるんじゃないかと思うくらい、物凄くたくさんのことを考えている自分がいました。

外に出れば目の前は表参道、広い通りにはたくさんの人が出ていました。わたしはついさっき別れた後輩がアップルショップに行くと聞いていたので、まだいるかなと思い探しに行きましたが残念ながらすでに居なかったため、とりあえず帰宅するために渋谷駅に向かおうとしました。

普段歩いている明治通りも人でごった返し、そんな中、私はさっきパンが買えなかったことを残念に思い、すぐそばにあったデイリーヤマザキで菓子パンを買っていました。これがのちに大いに役立ちます。

明治通りを歩いていると、目の前の茶色のビルがプッチンプリンのようにプルンプルンと震えるように揺れていたのを強く覚えています。

このころ、初めて自分のガラケーのワンセグを起動し、震源地が地元であることを知り、血の気が引く思いでした。てっきり東京周辺での出来事だと思っていたのです。

すぐそばの超有名美容室からはターバン状態の施術中と思われるお客様とスタッフが屋外避難をしていました。

わたしはついさっきまで試験を受けていたので、ドライヤーやハサミ、タオルなど美容室が開ける一式という大荷物を抱え渋谷を目指します。

父との電話

当時父は東京に単身赴任をしており、実家に電話をしてもつながらなかったのですが、たまたま父には電話が2回つながりました。

一回目の電話で父の無事が確認でき、その時点ではまだ母には連絡がつかない状態でした。

二回目の電話がつながった時、母の無事までは確認できましたが、ほかの親戚については不明のまま。建設関係の仕事をしている父は、会社が用意した緊急車両でその後新潟、山形を経由し仙台に戻ることになるとのことでした。

そのため、何かしら食べ物を買い込んで戻った方がいいんじゃない?と伝え新潟で調達すると言っていたのですが、駅前はスッカラカンで何も買えなかったと言っていました。その後父は各拠点から支援物資を受け取り東北支社へ戻ったそうです。

ようやくついた渋谷駅

いつもならすぐにつく渋谷駅ですが、ごった返していたので全然たどり着かず、時間がかかりました。駅に着くなり駅舎は閉鎖されみんな外で座り込んでいる有様。

この時点で私の頭は翌日の早朝営業の事で目いっぱいでした。卒業式のお支度のため、朝7時から予約が入っており、私はメイク担当で出勤予定でした。電話もつながらないし、明日の仕事に遅刻するかもしれないことをどうやって伝えようか。。。

公衆電話の存在を思い出し、渋谷マークシティへ。

長蛇の列!それでも2回並びました。

一回目は本社に電話し、配属店のセレモニー担当の自宅の電話番号を調べてもらい

二回目は調べてもらった電話番号にかけて電話口に出た家族に翌日の早朝出勤は出来ない旨伝言してもらいました。

一回目と二回目の電話で並びなおす間に、目の前にいた方は小学生を引率してスタジオパークにきている先生でした。少し離れたところには小学生が不安そうな顔で集まって座っていました。どれだけ不安だったろうと思うと胸が締め付けられます。

ミクシィのおかげ

電話はつながらず、メールも調子悪い、そんな時ミクシィのつぶやき機能で

今渋谷にいて帰れないことをぼそっとつぶやきました。あの時、ミクシィとツイッターが大活躍したんですよね。

そろそろ充電も心もとなくなり、歩いて帰る覚悟をしたため、まずAUショップで充電をしながらテレビでニュースをみて、気仙沼で大火災が起きていることを知り、これだけの被害で実家が何事もないというのは難しいのかもと感じていました。その後啓文堂書店で地図を立ち読みして頭に叩き込もうとしていたところ、渋谷に近いところに住んでいる美容師友達が休みで自宅にいるからおいでと言ってくれたのです。

この言葉にとても救われました。普段はバスか徒歩で行くのですが、バスは物凄い超満員で聞くところでは道路に人が溢れすぎていて目的地まで3時間とかかかるかもとの事だったので、迷わず徒歩。歩道もごった返していたので凄く時間かかりました。確か2時間近くかかった気がします。この歩いている途中で昼間に買った菓子パンを食べて乗り切りました。

友人宅で過ごした不安な夜

無事友人の家につき、お互いの無事を喜ぶまもなくお互いの地元のことを思いいろんなことを話して過ごしました。友人の出身は福島です。とにかく不安で仕方なかったのですが、寒くてガタガタで到着した私を友人は風呂を焚いて待っていてくれて凄く助かりました。

翌朝になると京王線が復旧していたので、朝5時くらいに友人宅を出発しノロノロ電車にのって普段なら20分で着くところを2時間かけて到着しました。土曜日の朝です。

結果的にはどこの卒業式も中止になったので仕事に穴をあけることはありませんでしたが、この時ほど電話以外の連絡手段を普段から持っていないと大変だと思ったことはありません。

その後の仕事

不規則ながら営業再開後の朝いちで顧客から電話連絡が2件相次ぎました。

「ごめんね!こんなこと聞いていいのかわからないけど、どうしても気になっていてもたってもいられなくて…ご実家大丈夫なの???」と実家の安否を心配して電話をくださったのです。きっと最悪なケースも頭に入れて電話をくださったであろうお客様も大きな不安でいっぱいだったのだと思います。どちらも、親、祖父母世代のお客様でした。

祖父の他界

暫くは不規則営業が続き、なかなか落ち着かない日々の中、祖父が3月下旬に他界しました。

実は3月上旬にほぼ意識のない状態になり、あとわずかと言われていたのですが、その期間を乗り越え、震災を体感し、その後なくなりました。後から聞いた話ですが、震災当時「正気に戻ったかのような表情」で過ごしていたというのです。

本来は祖父は自宅で最期を迎えるはずだったのですが、震災前に容体が悪化したため自宅に戻るのを取りやめていたところ入院中に被災することとなりました。結果としてそれでよかった、おそらく祖父はそうやって家族を守ったんだろうねと通夜の時に親戚と話していました。

奇跡的に祖父の葬儀を行う頃には通夜振る舞いや食事が出せるほどに物流が戻っていました。

多分、震災後みんな不安な中、一堂に集めて安心させたかったんだろうね。サービス精神旺盛だから酒と食事はしっかりふるまいたかったんだろうな。

わたしも職場で色々融通を効かせてもらい短期間に何回も帰省することができ、足りない物資を運ぶこともかないました。

本当は祖父がなくなる翌日に仙台に帰省する予定でした。でもちょっと間に合わなかったのはせっかちな祖父が、もう大丈夫だと思って先にいったんだなーと思います。3月下旬、高速バスの運行が再開して直ぐのころの話です。

みんなからの援助

私は帰省する時に、当時働いていた店舗のみんな、会社、お客様、友人からカンパを託されました。

「募金するのもいいんだけど、目の前に直接被災地に持って行ってくれる人がいるんだから」と直接私に託してくださったんです。家族に足りない物資やおやつを買ってもいいしなんでもいいから好きに使って!と言って渡してくれました。

この時の暖かさは今も忘れていません。

また、夜行バスで帰省する日の営業で、お客様が支援物資を某百貨店の特大紙袋いっぱいに購入し手渡してくれました。千疋屋のフルーツサンドと共に。それと義援金とかかれた封筒も。

私は私でドン・キホーテで缶詰やレトルト食品、卓上IHクッキングヒーターを買っていざ高速バスで帰省。

人生でこんな量の荷物持ったことないくらいリュック、両手に大量の紙袋入り物資を抱えて新宿のバス乗り場へ。

するとみんな同じような荷物量の同志。バスの車内の床まで荷物びっしりのまま、荷物に足を乗せ、夜行バスで仙台へ。

仙台へ

祖父のために、新宿のナチュラルローソンで500円くらいの小さな花を最後に買ってバスに乗り込み、夜中のバス。いつもは爆睡しますが、道路がぼこぼこすぎて眠れないほどでした。

仙台につくと、当時色々と殺伐とした時期だったので、あまり大荷物持っていると目を付けられると言われており、タクシーの荷物を詰め込んで実家へ。

ようやく父母と再会し、ほっと一息付けた瞬間でした。

そのころの実家の状況は

電気→震災当日に復旧

水→忘れた

ガス→不通(ガス管の損傷があったらしく復旧に数か月かかりました)

そのため、風呂に困っている状況で、私が帰ってきたことにより、近所のビジネスホテルの時間貸しシャワーを浴びに行くことになりました。実家はマンションなのですが大規模半壊との事で修理が必要でしたが、生活は続けられたため運が良かった方です。

おわりに

こんなに辛く悲しい自然災害は金輪際経験したくないけれど、自然相手にそんなことも言っていられません。

先日テレビでみて心に残ったことがあります。

「物資は取り合えば不足するが、分かち合えばたりる」

「地震後すぐに避難すれば、避難誘導で犠牲になる人はでない」

自分で考え、正しい行動をとることが、自分のみならず周りの人も救います。

これを肝に銘じ、これからも私は生きていきます。

 

ママ社労士
ままてぃー
2018年合格、2019年社労士登録 一児の母です。 モットーは なんとかなる なんとかする なんとでもなる